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■2003/12/31 (水)
翌日が元日だった12月2日 |
○第三百三十七号(明治五年十一月九日)(太政官布告)
今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候条此旨相達候事
(別紙)
詔書写
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季侯ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ッ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固り論ヲ挨タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
明治五年壬申十一月九日
一今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
(以下略)
突然、このようなお達しがでて、みんな驚いたことだろう。
と言っても、この文章がどれほどの人びとの目に届いたか、内容を説明されて、どれほどの人が、充分に事態を把握できたことであろうか。
「今年はよ、まるまる1年無て、12月2日の翌日から、新年ながやっての」
「12月2日の次ぎは元日ながやって?。どういうこっちゃ、よくわからんじゃ。」
「大晦日無いがやったら、借金払わんでもいいがかの?」
「お天道さまの決めた(!?)こよみを、勝手に変えるなんちゃ、どんでもないことやじゃ。」
この明治五年の「改暦」(「太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ躔度ニ合ス」太陰太陽暦→太陽暦)の裏事情はともかくとして――さらに合理的理由は言うに及ばず――、今で言う「説明責任」が充分にこのとき果たされたとは言えないようであり、むしろ如何に有耶無耶に改暦を断行することが、政府の要諦だったことだろう。
私のように12月が忙しい人間にとっては、12月の日数が減らされることは、暴挙であるか、それとも大なる救いであるか。
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■2003/12/30 (火)
シモーヌ・ヴェイユの《AMOUR》 |
10月1日に、《「賢治・トシ」とメーテルリンク》を書いたときに、「Yさん」として紹介した山崎さん。その山崎さんのメーテルリンク・サイト「La Mort par Maurice Maeterlinck」の書評欄に、シモーヌ・ヴェイユのフランス語訳詞で知られている『愛』(AMOUR)(原詩/ジョージ・ハーバート)が、山崎さんの訳で紹介されています。
不見識と言われるかも知れませんが、聖書を凝縮したような詩、そんな感じがします。
シモーヌ・ヴェイユ。名前だけは知っていますが、この女性哲学者?についても、実のところほとんど知るところはありません。
賢治との親近性なんてことを思いつきで考えていたらば、まさに賢治(1896〜1933)の十年後に同じ長さの生涯を生きたようです(1909.02.03〜1943.08.24)。
ヴェイユとの更なる出逢いは、来年の一つの課題になりそうです。
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■2003/12/29 (月)
きょうも雑感(ルソー年納め?) |
(メモです。)
ルソーの『人間不平等起源論』(1755)の第二部を拾い読みしました。
どうして今までこんなことが気づかなかったのかと思うのですが、
この「第二部」は『社会契約論』(1762)に、ある意味で“ダイレクトに”、またある意味で“背中合わせに”、接続しているのですね。
「背中合わせに」というところを、二論文間の〔7年間〕の意味するところも含めて、自分のことばでうまく説明できれば、私も一人前のルソー学者になれるのでしょうが…。まずは、この二つの論文に「共通の」ことばと言い回しで、語られている部分をていねいに整理することから、初めてみようと思います。
私の頭には、そういういう風に一歩ずつルソーを解剖していくしか、天才?ルソーに近づく手立てがないのですから……。
netの世界に遊ぶようになってほぼ3年たちました。
まあ、netの世界でもいろんなことがあるもので、ある掲示板で投稿者同士のトラブルを目の当たりにしたこともありましたし、私自身配慮を欠いた書き込みから、トラブル当事者になりかけたこともありました。
そんなことよりも、検索機能で得られた情報の多さは別としても、net上で―とりわけ掲示板で知り合った―、心ある人びとから受けた恩恵は、とても大きく、今さらながら感謝にたえません。
この自分のメモとして始めた日記も、5月来、8000のアクセスをいただいていて、ありがたく思っています。
年末は仕事柄、多忙なため思うように時間がとれませんが、雑文でも掲上していこうと思います。
「彼(ハイネ)(1797.12.13〜1856.02.17)と実践的経済学者であったフリードリッヒ・リスト(1789.08.06〜1846.11.30:革命目前にピストル自殺)の生を重ねてみるのもおもしろいかと思うのですが・・・。」と思いつきで書きました(12/20)。
フランス革命後の反動体制のなかでの、精神的自由と経済的自由の希求の象徴として二人の名前が浮かんだのです。
が、なんのことはない二人は、知り合いであり、パリでは同じ通りに住んでいたこともあったようです。
上の落書きをした折、『フリードリッヒ・リストと彼の時代―国民経済学の成立』(諸田實/有斐閣)という本が、今年の2月で出ていたことを知り、さっそくページを繰ってみました。300余ページに及ぶこの専門的評伝を読み通すことは、私などには荷が重いのですが、なんと付録として「リストとロマン派の音楽家たち」という小論がついているではありませんか。
なんとそこには、リスト(もちろん作曲家リストではなく、我が経済学者リストです)と交遊のあった何人もの(今日でも)有名な、音楽家の名前が何人も出てくるのです。そこに、ハイネのこともふれてあったというわけなのです。
〔追記〕
『ハイネ』(一条正雄/清水書院/1997.10)によれば、リストの死後、ハイネは遺族に25グルデン〔現在額でどのくらい?〕を贈っているということです。
いずれにせよ、リストの目指したものがなんであったのか、ハイネとの接点はどこにあったのか、二人の生き方をフォローする楽しみも増えました。
それは、1789年と1848年の二つの「市民革命」の意味を―少し大げさですが現代に生きる“私にとっての”意味を―問う、重たい問題の一環でもあるようなのです。
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■2003/12/25 (木)
ルソーとポーランド(序の序だけ) |
きのうに引き続き、「ルソーとポーランド」について(まずは、下記の〔1.〕について)、書こうと思ったのですが、準備不足で断念しました。論点は、
1.まず20代前半のルソーに、ポーランド王位継承戦争が与えた強い影響(愛国心)について
(これは、「告白」でルソー自身が語っています。)
2.「学問芸術論」の批判者として現れた「(かっこのつきの)ポーランド王スタニスワフとルソー」
3.ポーランド再建へのルソー提案「ポーランド統治論(ポーランドの統治とその企図された改革とに関する諸考察)」(1771)
※なお、スタニスワフとフランス菓子とのとても興味深い、ページがあります。
http://www.ne.jp/asahi/meringues/net/hist/leczynski.htm
※ゼレンカについて、すばらしく網羅的なHPがありました!。
http://www.algolab.co.jp/~lum/music/index.html
・・・というわけで、「ルソーとポーランド」についても、「ゼレンカ」についても、あらためて書き直したいと思っていますが……。
クリスマスは、ゼレンカのトリオソナタを久しぶりに聞こうかと思っています。
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■2003/12/24 (水)
ゼレンカ、バッハそしてポーランド(1) |
ゼレンカという作曲家をご存知でしょうか。
バッハと同時代に生きた(ゼレンカが6歳年上)、様式区分でいえばバロック末期の、音楽家である。
私もゼレンカの存在を知ったのは、数年前ですが、ここ数年、その独自な音世界に注目する人も増えているようです。
彼の生地は、チェコの首都プラハの近く(音楽史上、チェコの作曲家として登場する最初の重要な人物と言ってよいのではなかろうか)、バッハ家同様、ゼレンカ家も代々の職業音楽家である。
時代も、音楽環境もこの二人には共通点が多く、しかもゼレンカとバッハ、東部ドイツ〜東欧というかなり近いところで音楽に生を捧げて一生を終えている。
30歳を過ぎた頃、彼はザクセン選定侯国の宮廷楽団にヴィオローネ奏者となります。ヴィオローネは低弦楽器で、今のオーケストラで言えばコントラバスにあたる楽器です。このドレスデンにあった宮廷楽団のレベルはきわめて高く、ルソーが「音楽辞典」のなかで、もっとも完成された(le plus parfait =the most perfect)オーケストラであると絶賛し、楽団の配置図も残しているほどのものでした。
(ついでに言えば、ルソーがこのオーケストラの指導者として名前を挙げているハッセこそ、楽長を目指していたゼレンカの宿敵であった人なのです。また、このオーケストラを「ポーランド王の」と言っていることには別途、注釈が必要でしょうし、バッハやゼレンカの生涯を知るためだけでなく、当時のヨーロッパの政治状況を知るためにも重要な点です。)
それまでも近い位置にいたゼレンカとバッハの生が接近するのは、バッハが1723年にライプツィヒの聖トーマス教会の付属学校のカントルに就任してからのようです。ドレスデンが、ザクセン選定侯国の首都であったとすれば、ライプツィヒは商都なのでした。
興味深いのはザクセン選定侯国の王であり、ポーランド国王を兼ねていたフリードリヒ・アウグスト1世が亡くなった折、バッハもゼレンカも急いでミサ曲を作曲していることです。なお、プロテスタントのバッハが、カトリックの宗教曲であるミサ曲(のちに有名な「ロ短調ミサ曲」となる。)を作曲しているのは、王家の宗旨に合わせ、即位した息子のアウグスト2世へ献ずるためなのでした。
このときが、バッハとゼレンカの間が、もっとも近い関係にあり、お互いを認め合った?時期ではないかと推測されるのである。
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■2003/12/24 (水)
ゼレンカ、バッハそしてポーランド(2) |
フリードリヒ・アウグスト2世のもとでのゼレンカは、宮廷楽団の長をハッセにとられながらも、イタリアの様式を取り込みながらも、彼独自の世界を深めていったように思われます。
彼が亡くなるのは、オーストリア継承戦争の真っ最中、プロイセン軍によってドレスデンが占領されている1745年12月23日でした。
なお、このオーストリア継承戦争、七年戦争と続く列強間の戦いの中で、みずからの王をもたぬポーランドは、国土を蹂躙され、大貴族(マグナーテン)間の分裂で国力を疲弊させ、1772年8月、第一次ポーランド分割という事態を迎えることになります。
※
・ゼレンカ Jan Dismas Zelenka
1679.10.16〜1745.12.23
・バッハ J.S.Bach
1685.03.21〜1750.07.28
※ザクセン選定侯国を絶対主義国家として築きあげたのは「強健王」(derStarke)の名で知られていたフリードリヒ・アウグスト1世でしたが、彼はポーランド王位を手中にするためにカトリックに転向するほどの人であり、このポーランド王位をめぐるいざこざは、彼が1733年2月に亡くなると「ポーランド王位継承戦争」(1733〜1735)というヨーロッパ列強を巻き込んだ覇権争いとして顕在化することになります〔フランス・スペインVSオーストリア・ロシア〕。
フランス〔ルイ15世〕が立てた王は、以前短期間その座にもあったスタニスワフ1世(レスチンスキー)であり、
ロシア・オーストリアの後押しで王位についたのは、先王の息子フリードリヒ・アウグスト2世でした。
両王並立の時代が、ロシア・オーストリア側の勝利で決着がつくと、スタニスワフは廃位し、啓蒙的な?ロレーヌ公として余生を送ることになる。(なお、ルソーの「学問芸術論」の批判者として登場するポーランド王は、このスタニスワフである。)
・フリードリヒ・アウグスト1世(強健王) Friedrich August I(der Starke)
(1670〜1733)
1694-1733 ザクセン選帝侯
1697-1704 ポーランド王 アウグスト2世
1709-1733 ポーランド王 アウグスト2世(復位)
・フリードリヒ・アウグスト2世 Friedrich August II
(1696〜1763)
*フリードリヒ・アウグスト1世の息子
1733-1763 ザクセン選帝侯
1733-1763 ポーランド王 アウグスト3世
・スタニスワフ1世
(1677〜1766)
1704-1709 ポーランド王
1733-1736 ポーランド王(復位)
きょう一日パソコン画面とにらめっこしていたおかげでドライアイ?気味。
というわけで、目の休業日。
ふと、ある人から教わった八木重吉の詩が胸をよぎりました。
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不思議
こころが美しくなると
そこいらが
明るく かるげになってくる
どんな不思議がうまれても
おどろかないとおもえてくる
はやく
不思議がうまれればいいなあとおもえてくる
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