めぐり逢うことばたち

短詩・樹花たまには歴史の歳時記 by かぐら川

2006年12月13日

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さるさる日記
■2006/12/13 (水) 『黴』私注――戦争小説などに筆を染め(2-1)

 徳田秋声のある年譜をみていたらば、1905年の項の中に、
“明治38年〔1905〕一月、「少年大和魂」を「巌手日報」(一日)に発表。”という記載があるのが目につきました。

 「巌手日報」――1876年「巌手新聞誌」の名でスタートした現「岩手日報」の明治期の紙名です――の文字に、賢治のことをふと思いました。1896(明29)年、岩手県花巻生まれの宮沢賢治は、9歳です。宮沢家は、この「巌手日報」という新聞を購読していたと思われるのですが、時は、日清戦争のさなかです、もしかしたら「少年大和魂」という表題に幼い賢治は、目を留めていたかもしれません。

 この“少年大和魂”、いったいどのような内容なのでしょうか(少年向け読み物、童話、小説、エッセイ?)。そして、どういう経緯で、「岩手日報」に秋声がこの不思議な題の文章を書いたのかも気になるところです。
 『徳田秋聲全集』の中には収められているはずです。いずれ探しだしてその解題とともに読んでみたいと思っています。

■2006/12/13 (水) 『黴』私注――戦争小説などに筆を染め(2-2)

 実は、日露戦争当時(1904〜1905)の秋声については、秋聲みずから『黴』のなかで――“笹村”に託して――次のように描いています。
 (ちなみに、“深山”は三島霜川、“M先生”は尾崎紅葉、“谷中の友人”は、小峰大羽に照応します。)

(四一)
 「敵――の――生命――と頼みたる……。」
 こんな軍歌の声に襲われながら、笹村は翌朝十時ごろようやく目がさめたが、睡眠不足の頭は一層重かった。軍歌は板塀を隔てた背後の家の子供が謳っているのであった。

(四二)
 下宿へ帰ると、笹村はある雑誌から頼まれた戦争小説などに筆を染めていた。その雑誌には深山も関係していた。笹村は深山の心持で、自分の方へ出向いて来たその記者から、時々深山のことを洩れ聞いた。
筆を執っている笹村は、時々自分の前途を悲観した。M先生の歿後、思いがけなく自然に地位の押し進められていることは、自分の才分に自信のない笹村にとって、むしろ不安を感じた。
 「君は観戦記者として、軍艦に乗るって話だが、そうかね。」
 谷中の友人がある日、笹村の顔を見ると訊き出した。
 「けれど、それは子供のない時のことだよ。危険がないと言ったって、何しろ実戦だからね。」
 友人はそう言って、笹村の意志を翻そうとした。
 そんな仕事の不似合いなことは、笹村にもよく解っていた。

 (※引用した41節、42節ともに部分的な抜き書きです。)

 当時絶縁中だった三島霜川の関わりや、博文館の派遣記者として従軍取材した田山花袋のことが強く頭にあったようですが、やはり秋声には「不似合いなこと」だったというべきと思います。

〔追記〕
 「敵の生命(いのち)と頼みたる……」という軍歌の題名は何というのでしょう。これもゆっくり調べてみたいと思います。

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