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■2004/07/24 (土)
私の好きな人物:ヴィム・ヴェンダース4 |
「パリ、テキサス」
ついに夢の土地、アメリカへ乗り込んで撮った本作は、見事カンヌ映画祭グランプリを獲得し、ヴェンダースの名を不動のものとした。ライ・クーダーのスライド・ギター音色が聴こえ、荒涼とした砂漠の中をスーツ姿のハリー・ディーン・スタントンが歩いている。
砂漠は幻の砂漠であり、現実の砂漠ではないかもしれない。しかし、パーシー・アドロンなどによって、ドイツ人にとってのアメリカの砂漠は、ヴェンダースの視線に統一されてしまった。それくらい印象的な、またしても物語を飛び越えた風景が、まさにそこにあるのだ。
廃墟、古いアメリカ車、覗き小屋…文明の残した朽ち果てた機能美は、ヴェンダースの意識に最も近い「自然」であろう。美神ナスターシャ・キンスキーとハリー・ディーン・スタントンは、「ワン フロム ザ ハート」よりずっと陰影に溢れる砂漠で、詩のような調子の会話を続ける。
我々はこの作品で何かを得ることは無い。ただ、この深い幻想を見透かす視線からは、もう二度と逃れられないだろうと悟るのだ。
「東京画」
たった二人のスタッフで完成させた、1984年の日本を撮った、映像エッセイ。映像を紡ぐ作業は、失われたはずの記憶を強引に皮膜に焼き付ける作業だ。
…それだけに、東京はジレンマの固まりのような醜さに満ち、小津の墓参りはそれとなく面倒くさげな行事に成り果てている。ヴェンダースにとっての東京がこうなら、私にとってのベルリンも、もしかして期待はずれかもしれない。
そのことを恐れたとしても、私はいつかベルリンに行かねばならない。何故ならば、やがて失われ行く記憶のために、私のカメラという他人を腕に抱え、歩き回る作業そのものにエロティックな感動があるに違いないのだから。
「ベルリン・天使の詩」
本作について語ることは簡単だ。私は、本作そのものであるからだ。
つまり、私は、本作で未来を見て、過去を捨てて、私は本作によって生かされている。
こんな幸せな出会いは二度とあるまい。私は「ベルリン」の幻を見てしまった。いつかは追わねばなるまい。それは自分自身から逃れられないということと、同じことなのだから。
「ベルリン 天使の詩」はいつまでも私にとって理想の映画である。
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■2004/07/24 (土)
私の好きな人物:ヴィム・ヴェンダース |
「さすらい」
荒涼とした空き地の真中で野糞をする主人公は、またしてもヴィンターである。二つの精神安定装置(ロックを聴く為のレコード・プレイヤー)を載せて、自動車はドイツを走る。幻のアメリカに似た風景だけを、心の中に積み上げながら。
僅かに見え始めた物語の輪郭が、逆に私を居心地悪くさせるのであるが、しかし予想通り二人は平行線のまま別れていく。この途方も無く無意味な交流こそが、ヴェンダースの他者との接点なのである。私は今でも、その距離感に最大級の共感を持っている。
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■2004/07/24 (土)
私の好きな人物:ヴィム・ヴェンダース3 |
「アメリカの友人」
初めてハリウッド・スターを起用した本作は、なんとパトリシア・ハイスミスのミステリー小説の映画化である。しかし、心配するには及ばなかった。
やはり、そこに物語らしきものは無い。というか、無いようにしか見えない。あるのはニコラス・レイとサミュエル・フラーと、夕暮れの都市の灯と、ロングショットの曇天の海岸。
私の友人は、あの素朴な爆発を評してこう言った「ヴェンダース、きっと危ないから遠くから撮ったんだろうね」。そうかもしれない。そうに違いない。そうと決めた。
またしても愛すべき距離感がそこにあった。
「ニックス・ムービー/水上の稲妻」
ニコラス・レイに関して、私は何も知らない。学校で借りた彼の映画(「理由なき反抗」)のビデオはラストが途切れていていまだに分からないし、その題名をパロった「ロバート・ロドリゲスのハリウッド頂上作戦」は、面白すぎる内容に反して廃盤のようだ。
まあ、大したことじゃない。
「ハメット」
ハード・ボイルド小説の大家ダシール・ハメット本人を主人公にしたミステリ小説が原作となる本作は、なんとフランシス・フォード・コッポラがプロデュースに当たっている。結果、面白くもなんともない映画になった。ストーリーも、やっぱり無い。ただし、今回に限っては悪い意味で。
ハリウッドと「幻のアメリカ」はどうやら別物のようだった。
「ことの次第」
ミステリーを散文詩へ変換する方式を確立したのか、本作は冒頭に大仰なフェイクをかます余裕を見せる。「映画」が一つの題材となるが、距離感と都市の印象はまるで変らない。そして主人公は真実を語る「物語を語ると命が無くなる、命を語ると物語が無くなる」。
その矛盾を放置するのがヴェンダースで、律儀に切り捨てるのがジャームッシュ。そういった意味でヴェンダースは、いつも途方も無くレイドバックしたオジサンだ。彼は昔から歳をとりすぎていたのではないだろうか。
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■2004/07/24 (土)
私の好きな人物:ヴィム・ヴェンダース2 |
「都会のアリス」
ヴィンターことリュディガー・フォーグラーが主演する本作は、ヴェンダースのロード・ムービー三部作(「都会のアリス」「まわり道」「さすらい」)の第一作であり、最もヴェンダースらしいとされる初期の傑作である。本作には主人公ヴィンターと、アリスという少女が出てくるが、二人はさほど接触するわけではない。ただ、同じ道を同じ時間帯に歩いただけ…そんな感じなのである。この「平行線的な触れ合い」とも言うべき関係形式は、ヴェンダースからジャームッシュへ受け継がれる、重要なファクターである。この放埓な孤独の肯定こそが、私のヴェンダースへの愛の出発点である。
本作にはストーリーも舞台設定もしっかりと存在するが、記憶に残っているのは、数々の断片的な町並みと、二人の噛みあわない立ち姿と、空をのんびりと飛ぶ飛行機、ジューク・ボックス、チャック・ベリー、そして列車である。私にとって、この映画はそういった断片でしかなく、また、それで良いのだろうとも思っている。
「緋文字」
ナサニエル・ホーソンの名作を映画化した本作について、ヴェンダースは否定的な言説ばかり唱えているようだ。曰く「ジューク・ボックスもガソリン・スタンドも出てこない映画は二度と作らない」だそうだ。気持ちは分かる。だから僕はこの映画をまだ見ていない。
「まわり道」
ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」を原作とした本作は、実際のところアカデミズムとは程遠い、かなり直感的な演出を施されている。つまり、いつも通りのヴェンダース流ロード・ムービーなのである。
実際、あまりにも直観を突き詰めるが故にストーリーに何ら結末が見出せないし、しかしまた、それが絶妙な味になってもいる。本作も、私にとってはやはり断片の散乱でしかないが、ナスターシャ・キンスキーというとりわけ大きな断片を発見したことの喜びは記すに値する。
茫洋としたラストシーンの印象は、私自身の孤独な心象風景の一つの象徴として、今もときどき心の中に甦っては、僕の足を散歩へと駆り立てる。
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■2004/07/24 (土)
私の好きな人物:ヴィム・ヴェンダース1 |
今回始るのは、「NEAR FROM YOKOHAMA」初のシリーズ企画です。題して「私の好きな人物」。世界に才人多しと言えども、本当に心に常に残る人物というのはそう多くはありません。そんな僕の個人的なヒーローを一人一人紹介していきます。
第一回のヒーローは、ヴィム・ヴェンダース。ニュー・ジャーマン・シネマという非常に抽象的な一群の映画作家達の代表と見なされる、国際的な映画監督である。彼と個人的な交友を持ち、また作風についても共通するところの多いアメリカの映画監督に、ジム・ジャームッシュがいる。ジャームッシュの綴りはJim Jarmusch。ヴェンダースの綴りはWim Wenders。なんだか運命的な物を感じるのだが、まあどうでもいいと言えば、どうでもいい。
そんな風な「どうでもいい」ものに愛着を覚えても、それを優しく肯定してくれる映画…それがヴェンダース映画なのではないか、私は密かにそう思っている。ヴェンダース映画は、孤独を好きになるための新たな視点を与えてくれるのだ。
「サマー・イン・ザ・シティ」
私は、映画学校の卒業制作である本作をまだ見てない。「都市の夏 キンクスに捧げる」と題されている通り、本作の題名はロック・ミュージックのとある一曲の題でもある。キンクスとは三大ブリティッシュ・ロック・バンド(キンクス、ザ・フー、ローリング・ストーンズ)の一つで、日本ではあまり人気が無いが、世界中に熱心なファンを持つバンドだ。しかし、そのキンクスのサウンドを、私はまだ聴いていない。せいぜいヴァン・ヘイレンがカバーした「ユー・リアリー・ガット・ミー」を知っている程度だ。そういうわけで、僕はこの映画のことを何も知らない。
「ゴールキーパーの不安」
私は、初の商業映画で、難解といわれているこの作品を見ていない。私は、この映画のことを何も知らない。
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■2004/07/04 (日)
映画における記号化の欲求3 |
実写の世界では、当然ながらこの反対である。とくにスティーヴン・スピルバーグの作品には、その傾向が顕著である。「太陽の帝国」における、心理的葛藤が映像として現出する演出など、ただ単にドラマティックな効果を狙った物と呼ぶことができないほどに、記号化への欲求が大きく現れている。それだけに、彼の描くキャラクターは常に批判の対象とされてきた。「スピルバーグの描くキャラクターには奥深みが無く、リアリティに乏しい」こういった批判は、彼の作品の主人公が常に不特定多数の人々の共感を受け入れる器としてのみ、機能していることからくる。
彼の弟子、ロバート・ゼメキスの代表作「フォレスト・ガンプ」に登場する主人公が、かなり自律性に乏しい役回りを演じながらも高く評価された理由はただ一つ、ガンプが不特定多数のアメリカ白人の平均的な姿であるからである。批判する方法はいくらでもあったはずであるが、それらの意見が無視されたのは、どこかでアメリカの歴史を正当化したいという、白人社会全体の意思があったのかもしれない。
ただし、この欲求に従う限り、映画は人間以外を描けない。この常識を技術的な側面から破壊しようと試みた例が、奇しくもスピルバーグ自身による「ジュラシック・パーク」のクライマックスであったというのは皮肉である。
宮崎駿がディズニー映画を醜悪として嫌う理由もそこにあったのかもしれない。ディズニー映画は基本的にアメリカ白人の短絡的な資本主義的な理想を押し付けることが作品の趣旨そのものであると同時に、人間を過度に理想化する傾向にある。とくに「美女と野獣」におけるラストシーン…獣がマッチョな白人男性に変身する場面の醜悪さは筆舌に尽くしがたい。最後まで美女と野獣の姿のまま愛し合ってこそ、本物のラブストーリーといえるのではないだろうか。
「非人間を描く」アニメーション映画の新たな方向性は、そこにあるのかもしれない。ここに押井守の言説を引用して締めくくりたい。
鳥や獣を「壮大な無意識の世界の住人」と呼んだのは先に挙げた言葉と同じ、ロマン派の詩人たちでしたが、彼らは無意識の存在であるがゆえに意識に囚われた人間の眼に美しく映り、翻って意識そのものである人間はその埒外にある−つまり人間は人間であるがゆえに人間を美しいと感じることができないのだ
(「イノセンス 創作ノート」押井守 徳間書店)
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■2004/07/04 (日)
映画における記号化の欲求2 |
今世界の映画興行記録を次々と塗り替えている、アメリカのアニメ工房ピクサー社の作品を見ても、主人公たちの多くはそのように偏向した葛藤を持った深みあるキャラクターとして描かれている。ただし興味深いのは、脇役として時々登場する人間の子供の方は、見事なまでに記号化された「不特定多数の子供」として描かれている点である。
「トイストーリー」で、ウッディとバズの所有者である少年がまずそうだが、最もその傾向が顕著に現れているのは「モンスターズ・インク」におけるブウというキャラクターであろう。基本的に、このブウというキャラクターに奥深みはまったく無い。この幼子は幼子としての記号を演じ、外からの刺激に反射をしめすだけで、何一つ自律的な行動をとらない。年齢が一つの理由と捉える観客もいるだろうが、これに関しては恐らく原因と結果が逆で、意図的に「記号化された子供」を演じさせるためにブウというキャラクターの偏向や特性を取り除いたと考える方が妥当である。
これはアニメーション映画のまったく新しい地平である。不特定多数の子供として、人間を描くことで一つの共感を得ておきながら、子供の身の回りにある人間以外の事象に、ある意味では人間以上に複雑で奥行きのある心理的葛藤を背負わせ、個性あるドラマを造成するのである。意図してやっているのだとすれば、相当に考えられた必殺パターンと言えるだろう。
さて、その方法論を踏襲したか知らないが(ピクサーの総裁ジョン・ラセターは宮崎駿の旧友である)、宮崎駿の最近作「千と千尋の神隠し」にもそのような傾向が垣間見える。まずもって主人公が個性的でない。どこにでもいる、普通の少女であり、いままでロリコン趣味全開で情熱的に描いてきた、あの好き嫌いの激しい個性的美少女像がスッパリ切り捨てられているのだ。むしろ千尋以外のキャラクター…カオナシや湯婆などの方に深い心理的な傷を背負わせることで、ドラマを動かしてゆく。ただし、それを一種の諷刺として扱うことで、ピクサー作品よりも辛らつな印象を与えるものとなってしまったことは、現在の宮崎駿の精神状況を反映したものであろう。
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■2004/07/04 (日)
映画における記号化の欲求1 |
アニメは映画になり得るか…これは長らく議論されてきた課題であるが、結果として誰一人として明快な回答を出しえてはいないようだ。日本アニメ界最大の巨匠と呼んで差し支えない宮崎駿ですら、その辺の論理は曖昧なままに、ただ志向として情報量の操作などの方法論で質的な向上を目指しているに過ぎない。
とはいえ、「もののけ姫はこうして作られた」というドキュメンタリー作品を見ると、宮崎作品の一つの明確な志向が見えてくることは確かである。それは、一言で言えば「記号化の忌避」である。アニメの構成元素であるセル画とは、そもそも人間の手が描いたものであるからして、最初から記号としての運命を背負って生まれ出てくる。それをそのまま記号として扱い続ける限りにおいて、アニメは映画としての衝迫力を獲得することは不可能である。何故ならば、あの広大な画面を埋め尽くすだけの情報量を得ることができないからである。
一つの例として、「もののけ姫」に登場するタタラ場で、製鉄機の動力源である踏み板を踏む職人女の表情の演出がある。宮崎駿は、その場面の職業人の表情を演出するに当たり、アニメとして当然の成り行きとも言える「記号化」を慎重に避けている。
「辛いけれど、その感覚が麻痺してもいる顔」この二律背反性こそが人間の本性であり、ある特定の感情が発生したら、必ずそれに抵抗する逆の感情を持って乗り越えようとするという、非常にリアルな人間性の観察に基づいて、宮崎アニメの演出は為されているのである。
それだけに、宮崎アニメのキャラクターはある程度の偏向が義務付けられている。誰にでも気に入られる主人公を設定することは簡単だが、そのような安直な手段で得られた共感は、所詮表層的なレベルにとどまる。つまり、記号化された人格は、アニメの主人公としては役不足と言えるのである。
最近買ったCDの話。やっとこさロックの歴史を(個人的に)なめつくし、現代に追いついた感じがする。HMVの試聴でBORIALISというミクスチャーバンドのグルーヴ感に惚れて購入。以前から追っていた暴走ロックンロール・バカ集団THE DATSUNSの新譜ももちろん購入。
尊敬してやまないBOB MARLEYの死後リリースされた名作「CONFRONTATION」を購入。確かにオリジナル・アルバムほどの満足度には満たされない作品であるが、名曲「BUFFALO SOLDIER」をこのアルバムの流れで聴くと、とても自然でカッコいい。
中古屋ではまずMASSIVE ATTACKの「MEZZANINE」を購入。歴史的名盤と言えるほどの物とはとても思えない。以前どこかで小耳に挟んだマッシブの異常な世界観は一体どこに消えたのだろうかと疑問。同じく中古屋でNICK CAVE&THE BAD SEEDSを購入。絶望的な叫びに満たされた音楽性にしばし暗澹とする。「ベルリン 天使の詩」繋がりでこのバンドを知ったが、調べるうちにベルリンという街との繋がりが見えてきた。
とくにバッド・シーズのギタリスト、ブリクサ・バーゲルトという人物。最近本が出たので、一体何者かと思っていたが、どうやらノイズ・ミュージックの元祖的な立場にある前衛音楽集団EINSCHTURZENDE NEUBAUTENのリーダーだったようだ。因みに、これは当然ドイツ語なので、この綴りでアイシュテュルツェンデ・ノイバウテンと読む。
結成されたのは1979年頃で、冷戦下の西ベルリンで兵役を逃れ、壁の緩衝地帯として放置されたままになっていたポツダム広場他の廃墟で活動していたとのことで、当時の西ベルリンのアンダーグラウンド・シーンの鮮烈なビジュアル・イメージと思想性が、臭い立つように作品の印象を固めている。
新譜も出たようなので、聴いてみたいと思う。最近はノイズから離れて、ロックらしいロックをやっているとの事なので、その変化にも期待。
レンタル屋ではダットサンズつながりで、ホワイト・ストライプス、グラミーつながりでコールド・プレイ、何のつながりもなくタトゥーなどをレンタル。迎合するわけじゃないが、一応聴いておきたい連中を集めてみたというところ。
どうやら宮崎駿は本当に本当に大変な働き者らしい。イライラと貧乏ゆすりをしながら、搾り出すように絵コンテ作業。原画を全部チェックするというのは伝説でもなんでも無く、本当にやっているようだ。酷使された右手は限界に達し、ピップエレキバンまみれとなってしまう。もうほとんど身を削っているに等しい。
その上にスタッフのために蕎麦を茹でる、地震が来たときの為に緊急用トイレの設置と解説、避難訓練と同時に炊き出し練習の名目で、豚汁大会。廊下を通りぎわに他人の肩をもみまくり、原画チェックをやりながら取材陣に農耕文化について薀蓄をひとしきり。そんな現場に日本刀を持って現れる鈴木敏夫も相当おかしい人だと思うが、それを面白がって振ってみたりする宮崎駿も相当にキレている。仕事収めの後にも、ジブリから信州にある別荘まで、社の若手が自転車で向かう冒険企画「ツール・ド・信州」をぶちあげる。その大活躍たるや、人間の領域を超えている。
合間に挟み込まれる、鈴木敏夫と宮崎駿のインタビューは、他の社員の及び腰で疲れたような発言とは全く違う。まさに一国一城の主の言。重厚なカリスマ性と、人心をとらえて離さない明快さが共存している。
その志の高さたるや、総理大臣にしたいくらいのものだ(いやまじで!)。いままで書籍などで、その異常な知識量にはつくづく感心してきたが、こうして実際の仕事風景を見る機会を得ると、そんなことは当たり前と思っている本人たちの姿がそこにある。「こうなりたい」と思える大人の姿が、まさにそこにあった。見終わった後、僕は感動で立てなかった。
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